道の駅 熊川宿を出て まずは琵琶湖へ.. 琵琶湖の北岸から関ケ原→ 岐阜→ 木曽路から伊那と抜けて富士の裾野を経て三浦へ帰ろうかと思ってます。
何度通ったことでしょか、琵琶湖 北岸を.. ここから関ケ原を抜けて関東方面に出るんです。
前方に関ヶ原を記す道路標識が現れました。そのあと、大谷吉継の陣跡なる小さな看板を見つけて一度は通り過ぎたのに.. 矢も楯もたまらず、戻って陣跡を見ていくことにしました。
「ここだ、ここを入っていくようだぞ」.. ワクワクしちゃった親爺の胸。
旧中仙道?らしき細道を抜けてたどりついたのが大谷吉継陣跡と松尾山眺望地と書かれた無料駐車場でした。駐車場にヴォクシーを停めて..
行先を表示する案内板に従い徒歩でいきます スタコラと.. 松尾山眺望地が240mで陣跡が310m、大谷吉継の墓までは620mのようです。
階段を上がって鉄道線路の踏切を渡れば、その先は山道で 陣跡まで110mの標識が..
昨夜の雨に山道は濡れてます。ジュボジュボと山道を上って、
たどり着いたら、これが陣跡?ってな感じで、顔ハメ写真用の大谷 吉継が立ってました。「これはないでしょ」..← 感想
現在の野球界で誰が好きかと訊けば、ドジャースの大谷 翔平が好きだと答える人が多いと思いますが.. 関ケ原合戦で誰が好きかと訊けば大谷吉継と答える人が多いんじゃないかと思うんです。それがこれじゃ.. 「ちと しょぼすぎやしませんか」なんて感じ..
フムフム.. .. 小早川 秀秋は歴史に汚名を残して、可哀そうな気がします。
西軍を裏切ることになる小早川 秀秋は前方の松尾山の陣で13,000-の兵とともに微動だにせず.. 徳川方の参戦の催促に、一気に動き出した.. その時大谷の陣にいた兵は2,000-.. 大谷吉継隊は6倍強の敵に奮闘しましたが、あえなく敗走し 大谷吉継は自決.. いい話なんです これが、どこまでが実話なのかわかりませんが..
感動しました。大谷吉継の陣跡..
前人が建てた陣跡の石柱と遥かに望む松尾山の今の山容が観られただけで十分満足できました。感動..
このあと大谷吉継の墓を見に行こうかと思いましたが、やめておきました。
雨でぬかるんだ山道にこれ↑じゃ滑っていけません、せめてわらじにしとけばよかったと後悔島倉千代子でした。
「今回の旅は収穫が多かったぞ」.. 西南戦争の田原坂に続き、関ヶ原合戦の大谷吉継の陣跡まで観ることができました。
関ケ原合戦の追加の写真↑になります。青い建屋は工場ですが、そのうしろにそびえる山こそ徳川家康が合戦当初に陣を張った桃配山なのです。こんなのまで観ることができるなんて幸せ者です.. 当時の政治(1600年頃)は桃を配るくらいで協力者を集められたのか.. 今じゃお金をくばらにゃ、協力者は集まらない..世知辛い世の中になったと思いませんか.. 冗談はさておき、先をいそぎましょう。
岐阜の街場をブイブイといきます。
街場を抜けると、お次は下呂を目指してブイブイと..
七笑(木曽のお酒)の看板が路肩に現れました。 こんやのねぐらはもうすぐその先..
妻籠宿なる標識も出てきました..
木曽の道の駅に到着、写真も撮らずに夕飯のはじまりです、歩きすぎて喉が渇きすぎていたみたいな..はたしてここはどこの道の駅だったんでしょか?.. 写真はないけど多分 道の駅 大桑だったと思われます。
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