昭和20年8月15日に太平洋戦争に敗れて、その後のベビーブームを経て経済成長を遂げた我が国 日本。それを支えてきたのが我ら戦後世代..老いぼれの年金暮らしになった今でも若かりし頃に群れから刷り込まれた教えを守って生きてます。

青年時代に荒野を目指したように、親爺になった今も荒野を目指し続ける親爺軍団..

今日はどこをねぐらにするのか、若手(67才)のおいらは先輩の後を追うだけです。「はい、わかりました」と..

はぐれてしまって、スマホを入れれば..「もたもたしてるんじゃねいぞ」!「苫前漁港って言っただろうが」..なんてきついお言葉.. 中学、高校時代のクラブ活動を思い出します。

先輩の影を踏んじゃいけないと教わってきた戦後生まれは車を運転するときも車間距離を取って安全運転.. 踏み間違えてもいいように距離をとってます。

今夜のねぐらはこちら羽幌漁港。早速長老が釣りをはじめましたが、私は会場の設営..これも戦後生まれのやり方..

「先輩..時間ですよ~」なんて声をかければ..「お~ありがと」なんてただ一言だけ。

「お~、こっちで飲めや」なんて先輩に声を掛けられてから遠慮がちに席につくのが、戦後生まれの先輩と後輩の関係なのです。「そんなの関係ねー」なんて輩も中にはおりますが..

気を利かせて外部から見えないように自分の車を目隠し代わりに使うのも戦後生まれのやりそうなこと。 若かりし頃、先輩諸氏に教わったのかも..

暮れなずむ漁港で、親爺達は酒を酌み交わすのです。

若かりし頃の自慢話に花が咲き、夜は更けていきました。

夜釣りでもやってみるかと大先輩の一声があれば、それに従うのが戦後生まれの後輩の役割。

そこへ現れたのが昭和生まれらしきジャーナリストの佐々木君.. ただしこちらは戦後生まれとは言えないと思います。訊けば釣り新聞の記者だとかで、自身で堤防を周り取材をしたり写真を撮ったり、そして自宅で記事を書いているんだそうです。彼を見て感じたのは昭和の末近くに生まれた人は平和主義や民主主義について、戦争を知らない世代から教わっているのでぼよよんとした感じがします。 我ら戦後世代の親たちは軍国主義に封建的暮らしを余儀なくされたために、子供に対して厳しかったんですが..

翌朝..釣り新聞の記者から聞いた情報をもとに大先輩が竿をだしたら、見事に黒頭カレイを釣り上げました。
戦後生まれは根性主義.. 昭和末世代は科学的にものごとを考えていると思いました。

羽幌漁港で昨日の午後から今朝にかけて釣りをしましたが、トイレがないので対岸の羽幌フェリーターミナルでトイレを借りました。

天売島と焼尻島へむかうフェリーが出てゆきます.. 「航海の無事を祈るぞ~」なんちゃって..

朝飯と昼飯は各自で食べるので、気は楽でした。

今朝出会った医学部青年↑が帰るようです。彼は旭川医大の5年生でアイスホッケーの国体選手だとか..ただいま羽幌の病院で研修中、休みを利用して釣りにきたそうです。実家の九州大分県を出て北海道生活は早5年..
大先輩が朝からずっと釣りのいろはから、 他人に借りたものの扱い方までを 実地で教えた青年なのです。戦後生まれが平成生まれに昭和流の常識を教えていました。さすが戦後生まれの大先輩.. おいらも言ってやりました..「大門未知子みたいな立派なお医者様になるんだぞ」なんちゃって.. 私の孫も今年の春、15で親元をはなれて淡路島でサッカー修行をしています。医大生の話を聞いて他人事とは思えませんでした..以上、戦後生まれの親爺の習性のお話でした。チャン.チャン..
コメント
昭和一桁生まれの私の父は 九州の炭鉱から 15で 戦後の 焼野原 横浜 で働き出しました。 そして 私が生まれました 昭和 は遠くにありて思うもの 今年は 昭和100年 人生100年と言いますが 100年生きてみたいものです 。
わたしゃ、太く短くで結構毛だらけかも..