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真田 幸村ゆかりの地

しまなみ海道を自転車で走ろうかと、四国へ渡る途中で立ち寄った道の駅 柿の郷くどやまでの話になります.. 時は2023年4月6日のことです。

道の駅の情報館でもらった上のパンフレットに書かれた文句にそそられました。

幸村いざ、決戦の地へ..

赤備えの甲冑にまで迎えられて、ますます気分はヒートアップし、それじゃ九度山町内にある真田のみちでも「走ってみようか」なんてことに。

「腹が減っては戦はできぬ」なんちゃって、戦じゃないけど、とりあえず九度山名物のあんぽ柿などほおばりながら、

真田のみちの情報収集.. ふむふむ。わかったようなわからないような微妙な感じでした。

話がそれますが、この道の駅を命名するにあたっては、町の担当者たちも苦労したんじゃないでしょか、真田派と柿派に意見がわれたりなんかして、

自分が担当者ならば 真田派にくみして、「”道の駅 幸村ゆかりの郷 くどやまが”いいと思います」なんて発言してたかも、

話を戻して..

タマモ発進」なんちゃって.. 真田のみちを走ってみることにしたんです。

ギコギコ.キコキコ.. 苦労の末たどりついたのが こちら真田のみち、いったいどんなところなんでしょか?..

まずは真田庵から.. 拝観料は無料でした。

ふむふむ.. 真田庵とありますが、善名称院というお寺で、1741年に大安上人が真田屋敷跡に伽藍を創建したことが寺の始まりのようです。

寺の裏口の扉には真田幸村の旗印の六文銭が..

院内には真田 昌幸の墓地もあります。

昌幸は関ケ原の合戦(1600年)に敗れ、幸村と共に高野山の蓮華定院に蟄居させられて、その後 親族で暮らすことを許され、高野山の麓にある九度山に移住し1611年 この地で死亡(享年65才)した.. そんなことが書かれています。

真田の道はこんな感じ↑でした、道幅はせまく車を停めるスペースなどはありません、道の駅からは目と鼻の先なので、徒歩か自転車でじゅうぶん来られるはずです。

次は真田古墳へ、真田の抜け穴までは110mのようです、

真田の道にはこんな↑丁寧な案内板があるので安心です。

ギコギコ.キコキコ..「ゲゲッ!なんじゃらほい」?..

こちら↑が真田古墳(真田の抜け穴)です。

ふむふむ.. 古くからこの土地に残る伝説の横坑のようです.. ある者は真田庵につながる穴だと言い、またある者は紀ノ川につながる穴で、ここを抜けて真田幸村が水練をしたと言い..

おもしろいところでは大阪城につながる穴という説まで..

そんなことが書かれていました。

大阪城と真田庵を往き来できる穴と言うのはそそられますが、昨日ヴォクシーで九度山から大阪まで走ったけど、半端なく時間がかかりました、距離にして70kmはありましたから、

実話だとしても、穴をはっての70kmの移動はしたくはありませんね、

今は亡き川口隊長が生きていた頃に番組にしてもらえば面白かったと思いますが。

真田のみちはこんなところでした。

降り出した雨に、そろそろ帰るといたしましょか.. ギコギコ.キコキコ..

距離があまりに短かすぎたので、遠まわりして帰ることにしました。

道の駅に到着.. 6kmばかりは走ったでしょうか、これにて九度山町 真田のみちポタリングの話はおしまいです。

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